小田和正さんの誕生日
9月20日生まれの有名人の一人である小田さん、今年なんと74歳。
私が小田さんを好きになったのは1983年頃(中学1年生)で、その時の小田さんは36歳だから、その倍以上の年月が流れました…。
13歳で36歳を好きになる…ま、ほぼ憧れ要素なのですが^_^;
当時は歌番組もよく見ていて音楽・アイドル雑誌も購入していましたが、大抵その手の雑誌にはオフコースも載っていました(それ目当てで買ってるからそうなんですが)。
自分のブログなので、そんな小田さんにまつわる思い出をログします。
↓昔はレコード屋さんに貼られていたプロモーション用のポスターを掲示後に無理を言って譲ってもらっていました。おそらく店の方は「また来た(笑)」と思っていたことでしょう。これは4人になったオフコースのニューアルバム発売告知ポスターの一部です。他には松田聖子さんや中森明菜さん等のポスターもいただきました。いい時代でしたね。
「あの日あの時あの場所で君に会えなかった」から今がある
私が好きになった頃には既にオフコースのリーダーとして小田さんは有名だったわけですが、売れる前のオフコースのことも知りたくなるのがファン心理というもの。
なけなしのお小遣いや父親を使って(要はおねだりですね笑)、レコードやカセットテープ、掲載誌、写真集、ビデオをコツコツ収集しました。
興味のあるものは何故か飛び込んでくるというかアンテナが張られているせいか、田村正和さんの活字でも反応したりして(笑)。
なお、私は2018年の神戸でのライブで初めて小田さんが目の前を通り過ぎる(でも記憶が飛んでしまった)経験をしましたが、ここに至るまでに35年かかりました。
↓何回も自己引用してすみません^_^;
さて、最近はYouTubeなどで昔の録音・録画が上げられていて、私も時に視聴しています。
そんな中で見つけたのがこちらでした。
オフコースがブレイク前に出演していたこのコンテンツは大阪の百貨店にあった「ナショナルショールーム」での公開録音のラジオ番組。若い人はナショナルと言っても?でしょう、今やパナソニックですものね。
なお小田さんが出演されたのが1977年9月20日(偶然誕生日)で、この頃私は7歳でした。
で、この話と私との関係性ですが…後年私の勤め先がその百貨店でして、そのショールームが廃止になった跡地にできた新売場に関わっていたのでした。
強引な感じですが、どこかで私は小田さんの跡を追いかけているのだと思いました(笑)。
話は1980年代に戻します。
私が通っていた高校の校内には生徒会の準備室のような、誰も使わなくなった汚い階段下のような小部屋がありました。
ある日、何の用事だったのかは忘れましたが、偶然その部屋に友人と入ったのです。
そこで見つけたのは、1974年に、売れていない時代のオフコース(しかも2人時代)が我が母校に来ていた証拠である直筆サインがありました。
オフコースの本を読みあさっていたので、その頃に母校に来ていたことは知っていたのですが、それを証明するものが本当にあったことにびっくりしました。
↓サンリオが刊行した「はじめの一歩」は、古いオフコースファンであればおそらくバイブル的存在と思う(個人の感想)。読んだ時はまだその高校に入学する前でしたが縁がある!と思いました(笑)
↓当時鉛筆で○付けている私^ ^;
そのサインがオフコースのものだということに驚きながらも、どういう経緯でオフコースは我が母校に来てくださったんだろう(文化祭だと誰かが呼ぶはず)?と逆に気になりましたが、結局わからないままです。
で、そんな可哀想な扱いであったサインを持って帰るべきか葛藤しましたが、やっぱりダメだよね…と思って諦めてそのままにしました。
正直、そのサインは今どうなっているのか気になります。その小部屋も今は存在しているのかも不明…
なおその後、私が小田さんの直筆サインを入手するまでにこれまた四半世紀を有しました。
あ、でもサインは大学時代の友人宛としてのものです。
仕事のクライアント特権(タイアップ曲が小田さんのだった)でベストアルバムごともらえたそうです。
私がファンであることを憶えていてくれたおかげでした。家宝です・:*+.\*1/.:+
すれ違いと思っているのは私だけです(笑)
話はまだ続きます(汗)。
そして私が大学生の頃には「ラブ・ストーリーは突然に」のメガヒットがあるのですが、まずはその前に。
その頃私は、在阪のラジオ局で深夜アルバイトをしておりました。
ラジオ局ですから、たくさんの試聴盤やノベルティがそれこそあちこちに置かれていまして、よくそれを拾っておりました(ちゃんと公認でもらってました)。
その時既に小田さんファンであることを公言していたことで、ちゃっかりノベルティのカップをいただきました。
これは小田さんがオフコース解散後にソロで事務所(会社)を立ち上げて間もない頃の挨拶用か3枚目のソロアルバムのノベルティだった記憶。
当時からデザインの好みにはうるさい私ですが、いまだにこれは処分できません!
↓今は使っていなくて、小田コレクションの1つとして取ってあります。
で、前述の「ラブ突」ヒット後、そのラジオ局に小田さんがダークダックスさんのラジオ番組のゲストで来られたと、事後にミキサーさんからそれを聞きました。
その方を責めても仕方ないのですが、何故ワシに言わんのや〜!と心で叫んだと思います(笑)。
※注釈※
ダークダックスさんは男性4人のコーラスグループでして、小田さんが幼少の頃に自分が曲を作ったらダークダックスさんに歌ってもらえばいいと勝手に思っていた、というエピソードが確かあったのでした。そういうことを憶えている自分が痛い…
ま、もし立ち会えていたとしても、私は小田さんを直視できなかったと思います>_<。
そしてさらに月日は流れて21世紀、今度は就職してからの話です。
先述のナショナルショールーム跡の売場を担当していた頃。
仲良くしていた社内の広報担当女子ちゃんと、よく小田さんのライブに行っておりました。
なお、小田さんのライブの途中(休憩タイム的なもの)には、小田さんがその会場近隣の名所などをレポートする「ご当地紀行」というコーナーがあるのですが、「大阪に来たらうちの百貨店の名物であるイカ焼きとか食べるロケをして欲しいよね〜」などと二人で妄想しておりました。
で、とあるライブツアーに二人で参戦した時。
小田さんが我が百貨店の入口(正確には電車乗り場への階段口)からレポートしていた映像が流れました。
二人でガーン!でした…めっちゃそばに小田さんが来ていたんだ!と。
小田さんはそこから阪神電車に乗って高校野球の聖地・甲子園に行かれて夏の大会を観戦していたのでした。
またもニアミス(?)というか、それでも少しでも近づけたんだ!と嬉しくなったものでした。
まるで学生時代に憧れの先輩を追っかけてキャーキャー騒ぐ女子たちとあまり変わらない感覚なのですよね、四捨五入すれば40歳の私たちでした(笑)。
会えても、会えなくても、きっと伝わる
そんなこんなでこれからもしぶとくファンを続けていく訳ですが、コロナ禍でその関わり方が変わったことは否めません。
でも、声援ができなくても私たちの思いを伝えることは可能なんだという体験を先日しました。
もちろん、いつかは会場で一緒に歌ったりできる日が戻って来ることを望みますが、その日が来るまで、できうる形の応援を続けていきたいと思います。
あれれ、タイトルと解離した内容になってしまいました^_^;
私にとって、9月20日は小田さんが音楽活動を続けていることに改めて感謝&これからも活躍を願うスタートの日でもあるのです。
そしてそれは自分ももう少し頑張っていこうよ、と気持ちを奮い立たす日でもあるのです…。
ということで!
小田和正さん、お誕生日おめでとうございます!←ここで叫んでも気づかれないのですが、いいんですよ〜٩( ᐛ )و
*1: °ω°