上京ついでに思い出散策
今年に入ってから仕事が忙しくなり、気がつけば2月も後半に入っていました。
このまま春に突入していきそうですが、余白の時間がある隙に備忘録的日記を。
先日(1月16日)、東京・有明にある東京ガーデンシアターで開催された宮本浩次さんのカバー曲中心のコンサート「ロマンスの夜」に行ってきた話を書きました。
↓感動のコンサートからもう1ヶ月以上経ってしまいました^_^;延期になっていたけれど、参加できて良かった٩( ᐛ )و
これからエレファントカシマシ35thライブ(アリーナツアー)が3月以降控えていることもあり、節約できるところは締めていこうと、またも地元から出ている夜行バスで東京に行きました。
バスは新宿に早朝到着、上野駅で11時待ち合わせまでの時間をどう過ごそうか?について事前に考えていましたが、上野周辺のGoogle MAPを見て父方の祖母の住んでいた町に近い!ことに気づきました。
ここは、中学に上がる前まで毎年夏休みになると兄と共に祖母の家(マンション暮らし)にロングステイさせてもらっていた思い出の場所。
生まれ育った所=代々の実家=里帰りする場所がなかった我ら兄妹にとって、盆正月に帰省する友人が羨ましいと思ったことがありましたが、田舎から大都会である東京に行くのが幼いなりに非常にワクワクしたものでした。
とは言え、70年代後半〜80年代初頭のキラキラしていた原宿や渋谷等のスポットに行くことはなく、子どもらしいスポットである豊島園や親戚のいる東京や埼玉の家に行くぐらいだったんですよね(笑)。
そして私が中学生になる直前からその祖母が私たちと同居することになり、東京に行くことがほぼなくなりました。
その後、社会人になって仕事でちょこちょこ上京しましたが、当然ながら祖母が住んでいたマンションのある台東区根岸に行くことはありませんでした。
「この機会を逃すと一生その場所に行くことがない!」と思ったら、無性に行きたくなりました。
↓早朝の鶯谷駅前。
とは言え、祖母がなくなって20年以上経ち、当時の祖母の住んでいたマンション名や住所等の情報はわかりません。
自分の記憶ではそのマンションは駅から割と近く、小学校の前を通ったこと、歩いてすぐのところに日暮里の公園があったかな?ぐらいです。
そういうおぼろげな記憶を頼りに、早朝の根岸付近を歩きました。
40年の月日が流れたことで、鶯谷駅の周辺も整理されてきれいになったのではないかと思いますが、小学校の場所がすぐわかり、何となくこの辺かな?という所に、古いマンションがありました。
絶対そこがおばあちゃんのいたマンション!と言い切れないけれど、かなり近いような気がする物件。
ただ、周りは新しい&きれいなマンションがたくさん建っているし、その古めのマンション=祖母の住んでいたマンションじゃないのかもしれません。
が、もうそこだということにして(笑)、写真を撮って帰ってきました。
祖母はそのマンション近くに物件を借りて婦人服のお店を経営していたので、そこもついでに探しました。
その貸店舗は2階建てで、1階が服屋さん・2階は日本舞踊の稽古場にしていました(元々はここに住んでいて、その後マンションを買ったらしい)。
マンション以上にその店舗の所在の記憶が曖昧でしたが、道沿いに古い2階建の空家があって…何となくですが、店はここだったのかな?とこれまた決めつけ。
道路を挟むと向い側はすぐ荒川区(日暮里エリア)ということなので、恐らく私が訪ねたあたりはほぼ正解だということにして去りました。
あの頃は、周辺にまだ御用聞きの八百屋さん?みたいな商店や中華料理屋とかもあった気がするのですが、今回行った時には大型スーパーが出来ていてあって、商店系はなくなっていました。
昭和が遠くなりにけり…と、ふと感傷的になりつつも、次なる目的地である「六義園」へ向かいました。
日暮里駅方面に向かって、途中で谷中銀座(ゆうやけだんだん)を通り抜けてひたすら歩きました。
もし、今の年齢で祖母の住むマンションに住むことができたと仮定したら、とてもいい休日が過ごせそうな気がしました。
でも、もっと若い時だとその環境がちょっと渋すぎて(さすがに下町感はない場所ですが)、退屈と思っていたかも。
私も歳をとったのだな…なんて思ったりしつつ、私が抱く東京のイメージとは異なる、「普通の生活」がそこにある感じを受けながら歩いておりました。
なお、祖母が東京に住んでいたそもそもの理由は、本人がもういないので(亡くなったのが四半世紀ほど前)確認できないのが残念です。
元々は茨城県出身で、どういう経緯か不明ですが東京で出会った祖父と結婚して奈良へ、そして太平洋戦争が終わって数年後に離婚し東京方面へ戻っていったようです。
ついでに言うと、亡くなった祖父は家業を継がずに結果フラフラしていたようで、私も数える程しか祖父と会ったことがないという(笑)。
ショックだったのが、私が20代の頃に久々に再会したら、兄の嫁と間違えられたのです。孫の顔を忘れるぐらいの縁なんだな_:(´ཀ`」 ∠):
祖母に話を戻しまして…この地で婦人服店を営む前は別場所でバー経営もしていたようです(店の写真が残っている)。
今だと、祖母からその頃の話を聞いてみたい、同じ女性としてどう生きてきたのかとか。
個人的には、生まれてくる時代を間違ったタイプ(見た目を含めて結構先端を行ってたので、奈良の地元では浮いていた^_^)だったから、今の時代にフィットしていそうだし、同じ会社にいたら苦手なタイプの先輩かもしれない(笑)。
自分が若い頃だと、祖母に小言を言われてムッときたことも多々ありましたが、結構自分はその祖母に似たタイプと思うんですよね。
そしてふと、私が52歳で再びこの地を訪れた時と、祖母がこの辺りに住んでいた年齢とそれほど変わらないことに気づき…ああ、祖母の方が圧倒的に自立していたんだなと尊敬。
戦後の混乱期であろう頃に、女一人で頑張ってそこで生活していた祖母が(もちろんそういう方はたくさんいるけれど)、宮本さんが歌っているカバー曲等で歌われる女性とちょっとかぶっている感じもして、祖母がそれを聴いたらどういう感想を述べるのだろうか?と考えてもどうにもならないことをまたも想像するのでした。
↓カバー曲ではなく、宮本さんご本人のこの作品が祖母の人生にハマりそうな曲かなと思ったので貼っておきます。「わたしが負けるわけがない」っていう歌詞とか。
六義園と和歌山との関係を知る
先述のGoogleマップを見ていた時に、山手線の「駒込」駅が目に入りました。
幼い頃に、山手線の駅名を憶えた時に「変わった駅名やなぁ」という印象がありましたが、宮本さんが過去に住んだことがあるエリアらしいという情報をSNSに見かけたので(ミーハー丸出し)、違う意味で気になっていたスポットでした。
その宮本さんSNS情報に「六義園は俺の庭」発言があり、関西人としては「へぇそういう場所があるんだ」という薄い認識でしたが、谷中銀座から歩いて行ける距離感なんですよね。
確かに道自体は高低差もそれほどなく歩きやすい感じでしたが、あいにくの天候で途中から雨の勢いがそれなりに。
今回は雨は回避できるだろうという甘い見込みで上京したので手持ちの傘がなく、ストールを被っていましたが限界が来たので、コンビニで欲しくない折り畳み傘を購入。そのおかげで雨自体は気にならなくはなりましたし、コンサート会場までも小雨が降っていたので役には立ったからまあいいか。
なお、検索する時に六義園が一発で漢字変換ができず「?」と思っていましたが、到着してはじめて「ろくぎえん」ではなく「りくぎえん」であることを知り、小っ恥ずかしくなりました(そりゃ変換できないわ^_^;)。
歴史系は好きなジャンルですが、庭とか名勝系は疎くて、六義園は最近まで知らない庭園の一つでしたが、訪れてみて結構感動。
こんな都会の中にオアシスがあるなんて…なんて贅沢なんだろう。
開園時間9時に入園すると、早速小鳥のさえずりが辺りから聞こえてきて、でも周りにはマンションやビルが立ち並んでいて(コンクリートジャングルなんてことは言いませんが^_^;)、そのコントラストがジワジワきます。
そしてこの庭を宮本さんも何度も訪れたのだろうか?と考えると、同じ時間に居る訳でもないのにマスク下では口角が上がってくるという(笑)。←イタいですよね_:(´ཀ`」 ∠):
さて、入園すると六義園と和歌山県との関係についてパネル展示がされていました。
この庭園、そもそも和歌山にある「和歌浦」の情景を模したものだそうです。
六義園は、徳川5代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの中屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて、起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。
「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する[1]。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写し[2]、六義園八十八境として多く和歌にちなむ名を与えている[3]。また、その設計も柳沢本人によるものと伝えられている。
1701年(元禄14年)には将軍綱吉の母桂昌院が六義園を訪れ、その前後には将軍綱吉のお成りも十数回を数えた[4]。吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える[5]。
甲斐甲府藩主であった柳沢家は、吉保の子の吉里期の享保9年(1724年)に大和郡山へ転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。
明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。
Wikipediaより引用
本家(?)の和歌浦は地図上では地元から近いのですが、車で1時間20分、電車で2時間40分…電車だと新大阪–東京ぐらいかかるのね(笑)。
また、Wikipediaで現在の和歌浦事情を読むと、ちょっと切なくなる感じもあり…。
逆に、六義園があの都会の中でほぼそのまま残っていることがすごいことなのかもしれません。
当然、現在に至るまでにたくさんの人々の力によって守られてきたからこその結果と思いますが、東京大空襲の被害が及ばなかったことも奇跡的なことだったのでしょうね。
なお、300円の入園料は非常にお得に感じましたし、雨の中でも海外からの旅行客と思しきグループもいましたし、四季折々の見どころがあるようですので、また機会があったら訪れてみたいな(駒込駅からもまあまあ近いし)。
15km歩いていた
結局、その日はトータルで15km歩いていました(笑)。
その日履いていたのはヒールの高さのあるブーツでしたが、意外と足がさほど痛むこともなく(普段だと間違いなく痛いはず)、リラックスして歩いた結果なのでしょうか?
もし天気が良かったら、待ち合わせた上野周辺も見どころがありそうだったのでもっと歩いてライブ前に疲れていたかもしれませんが(笑)。今回のコンサートは、宮本さんなのにほぼお座りできる大人っぽい内容だったので、ある意味ちょうど良かったです。
またライブで東京方面に行くことはあるので、次はどこに寄ってみようか?ということを考えるのも楽しいですね。
出かけること自体はまだまだ得意ではないですが、行けばそれなりにはしゃぐ系の自分なので(笑)。
いわゆる観光地って、行くと「こういうもんか」と冷めた目で見てしまいがちなのですが、推しが愛ているとか思い入れのある場所ということを知ると、関心度が変わるっていうことはあるある!と思います。
ミーハーであることは、若い頃はちゃらちゃらしていて恥ずかしいような気もしたのですが、50歳以降の生き方ではモチベーション的に大事な要素だと思うので、照れながらも有効活用しようと思います。